あっと驚く計算 [誤答例]
ちょっと絶句した計算を紹介しましょう。いきなり誤答です。
いきなり3で割っていますね。その結果「等しくない式を=でつなぐ」形になっています。
このタイプの間違いは中間レベルの高校でよく見かけます。ということは半分近くの中学生がこのような間違いを見逃されて高校進学を果たしているということです。
底辺にあるのは「答えが合わないと、自分は数学がわからない」と感じるマインドは間違っているということです。
この因数分解の問題は「3乗の差」の因数分解の公式を正しく使うことができるかを見ることが目的です。ただ、その前に係数の3を前に出す必要があり、
としてから「3乗の差」の因数分解の公式を使えば良かったのに「3乗の差」を見つけた瞬間に因数分解に入るから3がどこかに行ってしまったと思われる。
評価する側からすると「勉強していないわけではない」ことはよくわかります。しかし、誤答です。「勉強してきたのだから」「3を忘れただけじゃないか」と考えると少しでも点をあげたくなる。しかし、この「情け」が試験の場で首を絞めるというのがこのシリーズの趣旨です。もったいないから、本番では絶対に〇にさせてあげたいと思いませんか。
そのために、今、心を鬼にして×をつけるのです。
ここまで勉強したのなら、もったいないですよね。
いきなり3で割っていますね。その結果「等しくない式を=でつなぐ」形になっています。
このタイプの間違いは中間レベルの高校でよく見かけます。ということは半分近くの中学生がこのような間違いを見逃されて高校進学を果たしているということです。
底辺にあるのは「答えが合わないと、自分は数学がわからない」と感じるマインドは間違っているということです。
この因数分解の問題は「3乗の差」の因数分解の公式を正しく使うことができるかを見ることが目的です。ただ、その前に係数の3を前に出す必要があり、
としてから「3乗の差」の因数分解の公式を使えば良かったのに「3乗の差」を見つけた瞬間に因数分解に入るから3がどこかに行ってしまったと思われる。
評価する側からすると「勉強していないわけではない」ことはよくわかります。しかし、誤答です。「勉強してきたのだから」「3を忘れただけじゃないか」と考えると少しでも点をあげたくなる。しかし、この「情け」が試験の場で首を絞めるというのがこのシリーズの趣旨です。もったいないから、本番では絶対に〇にさせてあげたいと思いませんか。
そのために、今、心を鬼にして×をつけるのです。
ここまで勉強したのなら、もったいないですよね。
誤答例をまとめてみます [誤答例]
未だ現職であることの強みを生かして「誤答例」を紹介しようと思いました。ここで紹介する誤答の例は「数学の教師としてはシンジラレナイもの」で極めて初歩的なものです。
深刻度の順位で公開するものではありません。しかし、特に中学の先生が個人指導で見つけてあげれられればすぐに修正できるものばかりです。授業で紹介していただくのもいいと思っています。
最初は「方程式と因数分解がごちゃごちゃになっている例」です。
これは「因数分解」しなければいけない問題を「頭の中で =0 として」方程式として解の公式を摘要したものです。さらに
逆にこれは「方程式を解いて x= で答えなければならない」ところを因数分解したものです。
ただし、これらを「指導者としてみると」第1例では要求している内容とは異なるものの「解の公式が正しく使えている」し、第2例では方程式の解は出ていないが「たすきがけによる因数分解が正しくできて」いて方程式の解はこのすぐ後ろにあるわけです。解の公式も「たすきがけ」も「正しくできるようになるためにはそれなりの努力が要求される」ので、これらを×の0点にするには心の痛みを伴います。
しかし、その「温情」がこのような「根本的な誤り」を増長しています。別な回でも書きましたが「心を鬼にして」×をつけないと生徒はわかりません。△でもつければ「このくらいでいいか」と妙な納得をします。そして入試などの「肝心な時に×と評価される」のです。
情けをかけることで、その瞬間の努力を評価できるかもしれませんが、長い目で見ると余計な苦労を生徒にさせてしまうことになります。教えるときは「しっかりと厳しく」教えることが結局は生徒のためになります。
深刻度の順位で公開するものではありません。しかし、特に中学の先生が個人指導で見つけてあげれられればすぐに修正できるものばかりです。授業で紹介していただくのもいいと思っています。
最初は「方程式と因数分解がごちゃごちゃになっている例」です。
これは「因数分解」しなければいけない問題を「頭の中で =0 として」方程式として解の公式を摘要したものです。さらに
逆にこれは「方程式を解いて x= で答えなければならない」ところを因数分解したものです。
ただし、これらを「指導者としてみると」第1例では要求している内容とは異なるものの「解の公式が正しく使えている」し、第2例では方程式の解は出ていないが「たすきがけによる因数分解が正しくできて」いて方程式の解はこのすぐ後ろにあるわけです。解の公式も「たすきがけ」も「正しくできるようになるためにはそれなりの努力が要求される」ので、これらを×の0点にするには心の痛みを伴います。
しかし、その「温情」がこのような「根本的な誤り」を増長しています。別な回でも書きましたが「心を鬼にして」×をつけないと生徒はわかりません。△でもつければ「このくらいでいいか」と妙な納得をします。そして入試などの「肝心な時に×と評価される」のです。
情けをかけることで、その瞬間の努力を評価できるかもしれませんが、長い目で見ると余計な苦労を生徒にさせてしまうことになります。教えるときは「しっかりと厳しく」教えることが結局は生徒のためになります。